映画を早送りで観る人たち / 稲田豊史

なんともいえないモヤモヤするタイトルの本だと思い手に取った。

Netflixにいつからか倍速再生への切り替え機能が実装されており、気付いてはいたが使う機会が今までなかった。映画の台詞を聞き逃した時などに巻き戻すことはあっても内容をスキップしたり全体を倍速で観たことはない。

本によると倍速で映画を観る人が増えているそうだ。その機能がそこにあるので使う人が増えるのは当然な気もするが、そういう単純な話でもないらしい。

試しに映画を1本1.5倍速再生で鑑賞(消費)してみたら、意外と内容が頭に入ってくることに驚く。最初は違和感があったが、慣れると全く気にならない。特に思い入れのない作品や情報収集のためならこれで充分、便利な機能である。

世の中の仕様が変わり、そこで暮らす人達の価値観もそれに合わせて変わってきた。知的好奇心や文化的探究心の風向きも変わって当然だ。最近の若者は、という主語の大きな分析は統計結果が数値で明らかになっていたとしても誤解と分断を産みやすい。扱いの難しい繊細なテーマである。著者の稲田豊史氏が可能な限りの中立的観点で慎重に丁寧に本を書かれているのがわかる。そして、1974年生まれの著者が冷静に分析しようとしても拭いきれない寂しさのようなものが文章の端々に滲んでしまっている。それが79年生まれの自分にはなんだかとてもグッときた、この本の読みどころとは少しズレていたかもしれない。

現代の若者は忙しい、若者だけではなく全人類が忙しい。情報が溢れ返った世界で可処分所得と余暇時間を無駄にしない生き方、目的地に最速で到着する方法を皆が探している。コスパとタイパという言葉が呪文のように唱えられ、極限まで無駄が省かれた現代社会はなんとも言えず居心地が悪そうだが、ともあれ自分が時代に乗り遅れていることは自覚しておいた方がよさそうだ。

一流シェフの用意したフランス料理を大急ぎで食べる奴はいないし、駅の立ち食い蕎麦を2時間かけて食べる奴もいない。食べ方にまで口出ししてくる頑固な店主のいる店は煙たがられて当然だと思うが、そういう店にはそれをありがたがる少数派の常連客も一定数必ずいる。食べ放題のバイキングでは自分の食べたいものを食べたいだけ食べる、デザートばかり食べる奴もいれば大急ぎで大量に食べて元を取ろうとする奴もいる、そういうもんである。そこからはみ出す奴も必ずいて、なんらかの信念を持って自分の店を始める奴もいれば狩りに出るやつも畑を耕し始める奴もいる。そういうもんなのだ。

鑑賞でなく消費であり、芸術ではなく商品として扱われたものが市場主義ゲームの中で辿る顛末は想像に難くない。元来、映画館の上映回転率に準じて設定された作品の尺やシングルレコードに収録するために作られた3分間のポップスが背負ってきた十字架を今更見て見ぬ振りは出来ないのではないか。

違和感には慣れ、そのうち当たり前になる。鑑賞と消費、芸術と商品の間を行ったり来たりしながら育まれるものがきっとあるのだと思う。これからも世の中は移り変わっていく、今までもそうだったように。

悲観的になることは何もない。モヤモヤした気持ちで手に取った本だったが、読後は意外に清々しい気持ちになった。