さよなら林檎

店で仕事に使っているパソコンが壊れた。
いや、厳密に言うと壊れてはいないが最近調子が悪い。突然、前触れもなく、画面が真っ暗になり電源が落ちたりする。この画面一体型のiMacを使ってそろそろ8年になる。店にいるときは殆どの時間これを起動しており、これがないと全く仕事にならない。簡単に言うと、買い替えないといけなくなったというわけだ。痛い出費だが仕事道具なので仕方がない。仕方がないが、痛い。
とりあえずAppleのホームページで現在販売されている機種を調べてみる。同じ機種で買い替えればいいかと思っていたが、どこを探してもこれと同じものが見つからない。廃番になったようなのだ。8年も経てば世の中は変わる。それはわかる。ただAppleよ、何故この27インチモニター搭載のiMacを作るのをやめたのだ。困るじゃないか。楽器やエフェクターなんかを物色していてもよく思うが、名機ほど過去のものになりやすい。だいたい名機と呼ばれるものは一昔前のモデルだったりする。あれは何故だ。
27インチのモニターサイズが店の作業場の机にはちょうど良い。これより小さくても使えることには使えるが、何となくサイズダウンすると仕事のやる気もサイズダウンしてしまいそうな気がするのだ。欲深い俺は出来れば映画なんかも大きな画面で観たい。しかし、Apple社製品で同じサイズ感のものを揃えるとなると本体と別にモニターを購入しなければならず、そうすると合計のかかる金額が大変なことになる。そんな金額はどう考えても払えない。しばし、途方に暮れる。気持ちのやり場がない。
 
誤解のないように先に一応言っておくが、Appleの製品は物凄く使いやすい。最高に便利である、それは間違いない。
 
Apple社製品を使っている人にはわかると思うが、この洗練されたデザインの機器は同じテイストのもので統一して使いたくなるように作られている。初めはそれでよかった。この林檎のマークのガジェットを使いこなしている自分、まるで仕事が出来る人間になったかのような気持ちにすらなった。大体出来る奴らはAppleを使っている。ただ俺は違うのだ、邪な先入観に惑わされて気付いたら一式揃えてしまっていた。そして、その無為無策ミーハー野郎の選んだ道具達に、この味のない白飯のようなデザインに、齧り取られた林檎のシルエットに、俺はもうウンザリなのだ。こんなことを言うとApple好きの人に怒られそうだが。
 
色々と時間をかけて調べた結果、毒を食らわば皿までといきたかったところだがPCの本体は現状のスペックに近いMacのminiに買い替え、それ以外はコスパを優先して他社製品に乗り換えることにした。これだけぶつくさ言っても結局本体はMacなのである、負けを認めざるをえない。ただ、モニターは思い切って今よりもサイズアップして32インチに、ついでにキーボードとマウスもMagicな奴らとはおさらばして、全く使い勝手の違う他社製品に乗り換えだ。
 
斯くして、買い替えたキーボードが届いたので今それでブログを書いている。正直ものすごく使いにくいが、多分すぐに慣れるだろう。今まではApple製品に慣れすぎていた、手足の一部のようになっていたのだ。信頼と依存、利便性と中毒性は紙一重だ。スマートフォンも何年か前にiPhoneとは決別し、中古で買った5000円くらいのものを壊れるまで使っては買い替えている。それも最初はものすごく不便だったが、慣れればどうということはなかった。こんなものに振り回されてたまるか、そんな気持ちでいる。
 
なぜそんなことをやっているのかわからなくなることもあるが、何となくそうした方がいいという直感に従ってやっている。道具がどんなものであっても、ある程度安定したパフォーマンスを維持しておきたいのである。
こんなものに振り回されてたまるか、そんな気持ちでいるのだ。