A.I.に任せて遊んだら〜♪

昨晩、酒を飲みながら携帯でApple Musicを立ち上げ、小型のBluetoothスピーカーから音楽を聴いていた。

自分のお気に入りを聴くのに飽きる頃、携帯を弄っていると便利なものでアプリが最近聴いている音楽の傾向から利用者の好きそうな音楽を探して勧めてくれる。おそらく過去の視聴履歴を元にA.I.が好みを割り出しているのだろう。ということはこのアプリを使えば使い込むほどその精度は上がっていき、勧められる音楽が利用者にハマる確率もどんどんと上がっていく。好みの音楽が自動的に選曲されて流れてくる、余計な試し聴きをする必要もない。月額1000円足らずで好きな感じの音楽が自動的に再生され続ける、合理的でコスパも良い。

こう書くと非の打ち所がない仕組みのように思えるが、それでいいのかという気もする。

自分が死ぬまでに音楽を聴く事に割ける時間的なリソースの限界があるとして、その全てが自分好みのものに割り当てられていくというのは正直コスパが良いというより音楽体験としては貧しくなっていってしまうのではないか。アプリに勧められた音楽しか聴かないという人などいないとは思うが、世の中は確実にそっちの方に向かっている。フィルターバブルやエコーチェンバーのような問題は何処にでもあって、細分化されたコミュニティや分断されたレイヤーの中で迷子になり生気を吸い取られていくというわけだ。

意味がよくわからないもの、全然良いと思わないがなんとなくどこか気になるもの、むしろ聴いていて不快なもの。こういう音楽はたくさんある。そんなものを聴かないといけない理由などどこにもないが、そういったものと接することで豊かになる感性や感覚があるのではないか。

情報のアーカイブから割り出された最適解の精度がこれからどんどんと上がっていくことで消え去ってしまうものがあるかもしれない。便利で快適な暮らしには中毒性と耐性があり、一度慣れると二度と元には戻らない。最近話題になっているChat GPTのニュース記事なんかを読んでいると余計にそう思う。一丁前に世の中のこれからを憂い、そしてそんな心配事もこれからはA.I.が解決してくれるようになるのかもしれないと開き直ったりしていた。

先日下北沢で共演した井乃頭蓄音団は「A.I.に任せて遊んだら〜♪」と歌を歌う、多分、聴き間違いでなかったら。あれ以来、時折脳内をリフレインする耳にこびりつくメロディとフレーズ。

人間は間違える、駄目な生き物である。それを経て成長する、故に人間であるとも言える。最適解はA.I.に任せて我々は間違えながら遊びたい。

今日、朝から奈良は天気が良く暖かかった。早めに家の用事を済ませてよく行く園芸ショップへ。暖かくなってきたからか園芸ショップの店頭には生命力が漲っている。一通りチェックして観葉植物や野菜の種、最近壊したスコップの新しいもの、肥料や土を購入。買ってきたペラルゴニウムビオリフロルム(なんという覚えにくい名前)を鉢に植え替えて眺めていると、A.I.の話などどうでもいい気がしてくる。彼らは生きること以外なにも考えていないようで。